ノウベル賞

大真面目で奇妙キテレツな研究をご紹介します。

不妊の娘に産科受診を勧めることは有効でない

 不妊治療には、通常の病気の経過とは異なる側面が多くあります。通常の病気では、治療時に予後や治癒までの大体の予想がつきます。しかし、不妊治療では、いつ妊娠に成功し、無事に赤ちゃんを家に連れて帰ることができるのか、すなわちいつ治療が終わるのかがなかなか読めないということです。このため多くの不妊カップルは、いつ治療を開始しようか、またどこまで治療を継続しようかなど、その悩みは尽きないものです。

『あなたの不妊の悩みに答えるQ&A』(保健同人社)より


 娘が結婚したその日から、私は孫が生まれるのを楽しみにしていた。孫を抱く自分の姿を空想することだけが生き甲斐だった。

 しかし、突然頭が真っ白になった。娘に不妊を打ち明けられたのだ。しかも、子どもがいないならいないことを受け入れ、彼女の夫と仲良く暮らしていこうと言う。

 娘とは仲が良い。娘夫婦は近所に住んでいて、頻繁に我が家に遊びに来てくれる。しかし、子どもを授かろうと努力する素振を見せない。そんな娘に心のどこかで腹が立ち、一方で、娘を”子どもを産める性”として産み落としておきながら、その能力を完全に活かすことのできない女性として苦労させてしまった私自身にも嫌気が差し、さらにその被害者意識に辟易としてしまう。

 しかし、自分本位で情けないながら、やはり孫の顔が見たい。

 なんとか娘に産科受診を勧めたい。どんな言葉で彼女に助言を与えれば良いだろうか。


 

静かに見守るべき!

 娘の気持ちを思いやること、そして、娘から注がれる私への気持ちに応えるためにも余計なことは言わず、娘たちのやりたいように生きてもらうのがきっと一番良い方法である。

娘はもっと辛い思いをしている

 私は娘に子どもができないかもしれないと告げられたとき、とてつもないショックを受けた。頭は真っ白になり、目の前は真っ暗になり、精神の明暗のバランスが崩れるのを感じた。しかし、それを告げた娘の痛みと苦しみなど私には想像も付かぬものだったのだ。

 不妊治療にはとてつもない苦しみが伴う。

 予後の予想がつかず、ゴールが見えない。

 連日注射での治療を受けなければならない。

 排卵期に仕事や予定を休んででも集中的に受診しなければならない。

 男女のカップルで協力しなければ、治療が終わらず、互いの考えを合致させるのは難しい。

 諸々の事情を受け入れ、それでも子どもが欲しいという強い想いがなければ不妊治療は成り立たない。

 しかし、娘はそれを全て理解した上で、あえて治療を受けないことを自分の意志で選択したのだ。

 彼女は夫婦で一緒に所謂不妊学級に参加し、検査や治療の内容についての説明を受けたようだ。その中で、検査や治療にはなぜ痛みや苦しみを伴うのか、それを行うことによりどういった効果が得られるのかを勉強してきた。

 決して苦痛から逃げたわけではない。メリットとデメリットを理解して、二者択一の中から一つを選択したに過ぎない。

 不妊に限らず、どんな病気でも、自分がかかっていることを医師から知らされれば強い恐怖を覚えるだろう。

 しかし、不妊に関しては、明らかな身体の異常を除き、直接的な命の危機が迫っているケースは少ない。自らの手で、あえて治療を受けない選択も選ぶことができる。

 両者にメリットがある二者択一は残酷である。この場合、どちらをえらんでも、大いなる選ばなかった選択肢に悔いが残る。

 娘は、実際に治療を受けるわけではない私よりも遥に悩み、苦しんでいるのだ。 

 気持ちに余裕がある者が苦しんでいる相手にかける言葉はどれも、相手にとっては鋭利なメスのように心を抉る武器なのである。

 

不妊は「親不孝」ではない

 人間における「女性」とは、”子どもを産むことが可能な性別”のことを指す。女の子として生まれる胎児が、母親の胎内にいる頃から卵子を作ることからわかるように、仕事やお洒落よりも優先順位の高いイベントが出産なのであろう。

 では、子どもが産めないことというのは、いけないことなのか。

 そんなはずはない。不妊は恥でも隠蔽すべき事項でもない。

 人間に関しては、子孫を育まなくても、華々しく生き、清々しく死ねば良い。そういう生き方が許容されている。女性であるから、子どもを産まなければいけない、男性であるから、子種を蒔いて子孫繁栄に努めなければいけない野生の動物と人間とは少しだけ違うのだ。

 私は孫の顔を見たいと思っていたが、娘は私に孫の顔を見せてあげたいと思っていたそうだ。そして、孫を見せられないことを「親不孝」であると自責の念に駆られる人もなかにはいるようだ。

 確かに、孫を抱けないのはショックだ。でも、娘に苦しみ抜いて欲しいわけではない。自分の子どもには笑って生きていて欲しいと望む親はたくさんいる。

 不妊は親不孝だなんて間違いだ。むしろ、真剣に話すことができれば、きっと全ての親は最高の「子孝行」を目指して努力するだろう。そんなに気負わず、親子で話し合うことで今よりもっと仲良くなれる。

 

不妊治療は公言すべし

 そもそも不妊治療をしていることを周りに隠している人もいる。周囲の人に打ち明けるタイミングを苦慮したり、家族に不必要な心配をかけることを恐れての判断のようだ。その結果、子どもは要らないと明るく振る舞いすっかり何もないように生活している。

 そもそも隠すべきではないのだ。隠してしまうと周りから「不妊治療を行なっていない夫婦」という目で見られてしまう。

 周りの目を気にしないで生きようなどと周りに助言する随分と元気の良い他人の人生修正屋のような顔をしている人が世の中にはたくさんいるものの、周囲がどう思っているかを気にしないというのは無理だ。謙遜と尊敬が人生の立ち回りの大きい部分を占めるこの国では、相手に対して自分がどう思っているかを述べる機会が多くある。そのため、「自分は他人からこういう捉え方をされていたのか」と感じる場面も比例して多くなる。そんな文化圏で生活しているのに他人からの評価を無視し続けるのは難しいのだ。

 前項で述べたように、治療に行くことは悪いことではない。ひょっとしたら、自分の両親も不妊に悩み、その葛藤の中で、私を産んだのかもしれない。あるいは、うっかりできちゃっただけかもしれない。

 自分の出自を推量で語るしかないのは、知らないからだ。親や親戚に聞いたことがないからだ。

 娘にとって痛い言葉を、彼女について一番詳しいはずの親が投げてしまうのは、パートナーを見つけ、自立した娘のその後の姿を知らないからだ。

 相手の姿をきちんと捉えれば、自分の考えを下手でも伝えられるはずだ。

 不妊に限らず、思いや願いは堂々と他人に話してほしい。それを受け止めるだけの覚悟を持っている人は、多くはないけれど、必ず存在するのだ。

 

まとめ:悩む娘のことを親は静かに見守るべき

 「赤ちゃんはまだ?」「産科を受診したら?」という言葉は、かける方からすれば自身の願望や野次馬意識からくる何気ない言葉でも、かけられる方にとっては、それ一つで人生がひっくり返されるほどの恐怖の言葉である。だから、娘夫婦がどんな決断に至ろうと、彼女たちに全て任せるのだ。 

 介入するのは過ちだ。同じ血が流れているように見えるが、家族は他人である。ずっと安全な巣から出ず、親離れをしない鳥は飛べないものだ。

 パートナーと共に、それまでの住処から飛び出した一人の女性の在り方を今後も静かに見守っていきたい。

 

「僕はときどき憂鬱になって、何日もつづけて口をきかないことことがあるが、そういうとき僕が怒っていると思ってくれちゃ困るんです。ただ黙ってほっといてさえくれれば、じきもとのとおりになるんですからね。ところでこんどは君のほうのうちあけたところを聞こうじゃありませんか。いっしょに暮すとなればそのまえに、おたがいの短所を十分知りあっていたほうが好都合ですからね」

コナン・ドイル『緋色の研究』(新潮社)より